バリアフリーイメージ

合理的配慮

合理的配慮は、障害のある人から、社会の中にあるバリアを取り除くために何らかの対応を必要としているとの意思が伝えられたときに、負担が重すぎない範囲で対応すること(事業者においては対応に努めること)が求められるものです。
重すぎる負担があるときでも、障害のある人に、なぜ負担が重すぎるのかを説明し、別のやり方を提案することも含め、話し合い、理解を得るよう努めることが大切です。

内閣府リーフレットより

このように定義されていますが、
障害者差別解消法により、定められた定義です。
障害者差別解消法について詳しくは内閣府のこちらのページを参考にしてください。

このような合理的配慮は、児童であっても教育現場で求めることができます。

*合理的配慮の具体例*

障害特性に配慮した座席配置

例えば視力の問題で、黒板に近い席にしてもらうなどが身近な例ですが、発達上の問題で、集中しやすい席にしてもらう、トイレに立ちやすい席にしてもらう、などが当てはまります。

筆記が困難な場合の代筆

本人の意思を確認しながら、代筆可能な文書などを変わりに書いてもらうことも合理的配慮です。
文字が書けないというのを理由に、必要な申請を諦めなくていいのです。

言葉や文字の代わりの写真や絵カードの使用

これはもっと教育現場で広まってほしいと思います。
学年が上がるにつれ、口頭での連絡事項が増える中で、うまく聞き取れないがために忘れ物をしたり、行くべき教室を間違えたり、そんなことを未然に防ぐために、とても有効かつ簡便な方法です。

学年が上がって、自分に必要な情報を耳から得て記憶にとどめておくような訓練は確かに必要です。
ですが、発達上の問題で、それができないのだとしたら、それを強要し、できないを責めるのは、間違っていると思いますし、障害者差別解消法に触れるものだと思います。

階段が不可能な車椅子へのスロープ設置

こちらは嬉しいことに、よく見かける当たり前の光景になってきました。
同じように、いろんな配慮が「当たり前」に見かける社会になってほしいと思います。

学校に求める合理的配慮

上記は一例ですが、その子の障害特性を踏まえて、どういったことに配慮してほしいか、と学校に提言することができます。

しかし、「負担が重すぎない範囲」である必要があり、学校現場として対応できるかどうかは、各学校に委ねられます。

実際には、支援員さんの人数や、教室などの設備の問題が高い壁になっているように思います。
ですが、学校には対替え法を提案するなどの努力も必要とされています。

対応する保護者の心理的負担はかなり大きいですが、その子にとって必要な配慮とは、その子が学校生活を送る上での躓きを減らすものなので、結果的にその子にも学校にも、双方にとって良い結果が得られるものだと、わたしは思います。

そして特に公立の学校では先生の異動があるため、年度内に約束したことも、年度が替わってその先生がいなくなってしまったら、白紙に戻った、ということも多々あります。

保護者だけではとても大変な作業になりますので、時には支援の専門家からの提言として、関わってくださる療育の先生から一筆頂けると良いと思います。

中には、直接学校に書面は出せない、という療育機関もあります。
そんなときは、学校宛ではなく、保護者に宛てたアドバイスという名目で書いてもらえりします。
それを参考までにお見せする、という方法です。

まだ浸透していない合理的配慮

ここからは個人の感想になりますが、教育現場ではこの合理的配慮が真の意味で浸透していないように思います。

もちろん全国を見渡せば、支援教育やインクルーシブ教育を積極的に取り入れ、支援に前向きな学校もあると思います。

わたし個人としては、発達障害という言葉そのものも、比較的最近定着してきましたが、十分理解され特性に応じた関わりが浸透している、とは正直思えません。

療育の現場においても、発達障害の特性は100人いれば100通りなので、専門家たちの間でも、日々勉強会が開かれるなど、特性の理解は難しいものです。

従って教師といえども、発達障害などについては専門家ではないのですから、初めからすべてを理解してほしいというのは無理なことです。

一方わたしたち保護者は、発達障害そのもののスペシャリストではないけれど、我が子をずっと見守ってきた「我が子のスペシャリスト」です。

保護者ができることは、我が子の特性を根気よく説明し、必要な支援についての申し出や相談を持ち掛けること

ですし、

先生方は、教育のスペシャリストとして、その子の特性を真摯に聞く姿勢を持って、教育がより効果的にその子に届くために何ができるかを専門家として対応してほしい、

切にそう願います。

間違っても、合理的配慮を特別扱いだと思ってほしくないのです。

また、支援を申し出る保護者にも、それが合理的配慮に当たるかどうか、学校に過剰な負担を強いていないか、クラスメイトへの影響はどうか、多方面からよく考える必要があります。

学校と保護者とが、誠意をもってお互いに相手の意見を尊重し合い、課題克服に向けて共に解決策を考える、これが理想の形だと思います。

教育現場における合理的配慮の重要性

学校は子どもたちが最初に属する「社会」

先生がいて、クラスメイトがいて、上級生・下級生がいる。
そんなミニチュア版の社会で、人との関わり方、ルールを守ることの大切さ、やるべき事をやり抜く力、学力を付ける、そういったことから本物の「社会」に出る前に、社会を生き抜くための力やスキルを身に付けるための場所であると思います。

そして、子どものたちの「学校」の位置付けは、年齢とともに変化していくものです。

幼稚園や小学校低学年くらいまでは、「学校絶対主義」

年齢が低いときには、子どもたちは無条件に先生が大好きで、先生のいう事こそ絶対である、基本的にはこのような感覚だと思います。

わたしも経験がありますが、翌日の準備をしている上の子に、「これもいるんじゃない?」と予定表から読み取った持ち物を差し出してみました。
すると上の子は、「先生はそれがいるとは言ってなかった!」と言って、頑として聞いてはくれませんでした。
結果的には、先生が伝えるのを忘れていたのですが、上の子にとっては学校のことに関しては、親よりも先生の言う事をとても大切に思っているんですね。

中学年頃は、「学校と社会を比べ始める時期」

この頃の子どもたちは、例えば上記のような状況であったなら、「あれ?先生言うの忘れたかな?」と考えることができ始める時期で、先生の言う事と状況を照らし合わせて「一応持って行ってみようかな」ができ始める時期。

先生だって、人間なのだから間違うことも忘れることもある、という気付きから、担任の先生と他クラスの先生のやり方を比べてみたり、時に先生にダメ出しをしたりし始めます。

徐々に思考に自分の軸を持ち始める時期で、中学年が難しい学年である、と言われる理由ではないかと思います。

‣高学年からは、学校の矛盾点を指摘し始める時期

高学年にもなると、育ってきた自分の思考軸こそ正しい、と思うようになります。
ただ、その思考軸には、まだ多くの「自分都合」も含まれており、クラスや学校全体を考えると間違った考えをしていることも多いです。

ですが、正論を言っていることも同じくらい多いと思います。

上の子はクラスであった出来事を割とよく話してくれますが、先生はこう判断したけれど、自分はこっちが良かったと思う、その理由は・・と聞いているわたしも子どもの意見は間違っていない、と思う事も多いです。

上述はわたしの経験に基づく印象ですが、年齢と経験を重ねて、「社会」との関わり方を学んでいっているのは確かだと思います。

子どもたちの「社会観」が育っていく時期に、先生の教えによく耳を傾け、先生の姿を鏡にしている時期にこそ、困っている子に適切な配慮をしている環境であってほしいと思うのです。

その小さな「社会」を卒業していく子どもたちは、大人になって本物の社会を構成する一員になります。

つまり、「合理的配慮」という考えが、小さな社会に属している頃から周りにあふれていれば、そこで育った子どもたちは、ごく自然に周りに対する配慮をする術を身に付けている、ということです。

逆を言えば、合理的配慮に積極的でない小さな社会に属していた子どもたちが、大人になったからと言って、教えてもらっていない真のバリアフリーの考え方などできるわけもないのです。

バリアフリーという定義を説くのは簡単です。
しかし、根幹にあるその考え方や自然な配慮などは、実際に触れて経験してこそできるようになるものだと思います。

懐の深い社会を作るには、きっと今ある現状を変えていくだけではなく、将来を背負っていく今の子どもたちの意識に、合理的配慮を根付かせることこそ大事なのではないかと思います。

わたしたち当時者にも学校の状況や先生の負担についても、理解をし配慮をする必要がもちろんあります。

配慮をしてもらって当然、という考えは間違っていると思います。

配慮は必要だけれど、当然のものではない。
そして謙遜するものでもない。

みんなの意識が、1つの目的に向かっている状態。

合理的配慮とは、双方が持ち合わせるべき配慮であるということを忘れてはなりません。

合理的配慮が育む子どもの心

発達障害とは、発達の凸凹がある状態で、特定の分野に苦手や困難がある状態です。

娘の場合で言うと、知的障害とは、発達が全般的に緩やかですので、全般的に習得、定着がゆっくりです。


このような子どもたちは、あることを習得し、定着してできるようになるまでには、定型発達のお子さんの2倍、3倍、それ以上の時間と経験、そして工夫が必要になります。

裏を返せば、定型発達のお子さんの2倍3倍の失敗と時には叱責を経験している、ということになるんです。

ですが、あることを習得するのに、1つアイテムをプラスすることで、各段に効率よくできるようになった、という経験はありませんか?

例えばわたしはキャベツの千切りが苦手です。
包丁で一生懸命切っても、細く切れずにゴワゴワのキャベツが出来上がります。
ですが、スライサーを使えば、わたしにもフワフワの千切りキャベツに仕上げられます。

また、わたしは車のパーキングが苦手です。
バックで駐車しようとすると、隣の車にあてるんじゃないかとヒヤヒヤします。
ですが、バックモニターを付けることで、後ろが良く見え、なんとか目的の場所に駐車しやすくなりました。

上述の例において、わたしにとっての合理的配慮は、スライサーとバックモニターになりますが、これらのアイテムのおかげで、生姜焼きには自信を持って千切りキャベツを添えられるようになり、車でのお出かけも駐車場が狭いからと諦めなくて良くなります。

このように、合理的配慮は目的を達成するためのアイテムやヒントなのですが、そのアイテムやヒントがあることで、失敗する回数が減り、自分に小さな「自信」を持つことができるのです。

ある種の困難や苦手があったとしても、それがあることで上手くいったという経験は、子どもの心に深く染み込み、次も何かに挑戦しよう、今回は失敗したけど何か他に方法があるかもしれない、と前向きにしてくれます。

子どもの心が満たされていて、自信と意欲が湧いていれば、きっとこの先を強く、そして自分らしく生きていける、そう思います。

合理的配慮は、子どもの自己肯定感を育むという大きな意味があるのです。

支援教育のスペシャリスト「特別支援学校」

最近、特別支援学校の持つイメージが変わりつつあります。

知的障害が対象の特別支援学校ですが、最近ではグレーゾーンのお子さんや、軽度のお子さんが特別支援学校を望んで入学することが増えました。
(入学には療育手帳が必要です)

年々在籍児童が増え、全国各地で、特別支援学校の教室不足から、新しく学校を建てる動きがでてきました。

これは、特別支援学校の子どもへの関わりが、とても専門的で、工夫に満ちているからだと思います。

わたしも娘の就学先を決める際、

地域の学校の支援学級も視野に、教頭先生に面談を申し出ました。
同じように特別支援学校の先生にも面談を申し出ました。

その両方の面談を終えた時、もう明確に答えは出ていました。

知的障害と場面緘黙症、加えててんかんを持つ娘にとって、
・安心して自分を表現できる場所
・心から信頼できる先生方と関われる場所
・これから豊かな人生を送るために娘に身に付けてほしいこと
これらすべてを安心して任せられるのは、特別支援学校しかない、そう思ったのです。

特別支援学校は、その子が「できないこと」を「できること」に変えるために、あの手この手の支援を考えてくださいます。
時には手作りの教材や、楽しんで取り組むためにシールなどのご褒美を使った取り組みなど、支援の幅は多岐にわたります。

また、公立学校の支援学級の先生方に、支援教育の指導もするような、支援教育の中枢を担っています。

娘の通う特別支援学校では、在籍児童以外にも発達の相談や就学の相談を受け付けてくれる窓口があります。

学校での対応に疑問を抱いたり、具体的な支援の方法を相談したいときなど、お近くの支援学校に問い合わせると、相談に乗ってくれるかもしれませんので、記憶の片隅に置いておいてください。

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