子育ていろいろ

きょうだい児のこと

先のブログ「療育っ子と兄弟」の続編になります。

さて、先のブログ記事に出てきた「きょうだい児」という言葉。

繰り返しになりますが、
病気や障害をもつ子の兄弟、という意味で、
我が家の場合はお兄ちゃんの方を指します。

兄弟に病気や障害をもつ子がいる場合、
親はどうしても病気や障害をもつ子の世話で手一杯になってしまいます。

すると他の兄弟は、
「出来ることが当たり前」になってしまって、
我慢をしたり頑張り過ぎたり、そして寂しい思いをしたりしてしまう。

これにはもう思い当たる節があり過ぎて、
上の子への申し訳なさと不安でいっぱいになりました。

例えばご飯のとき。

特に時間に追われているときなど、
「もう!手伝ってよ!みんなのご飯でしょ!」
などと言ったところで、手伝えるのは上の子だけです。

上の子は配膳などを手伝ってくれますが、
療育っ子は知らん顔。
それでも怒られることはありません。

お片付けのときだって、
「片付けて」と言われて片付けるのは、片付けることができるのは上の子だけ。

一緒にお出かけするときも、
療育っ子がぐずったり、用意が滞ったりすると、
親の手は療育っ子に取られるだけでなく、準備万端な上の子は終わるまで待たされる。

そして車の中。
親が2人前に乗り、子どもたちが後ろ。
そうなれば療育っ子のお世話はお兄ちゃんがせざるを得ません。

やれお菓子の袋を開けろだの、
お茶が飲みたいだの、
シートを倒せだの。
そりゃイヤにもなります。

兄弟平等に、って思っていても、
現実問題として出来ていないことが殆どなんだと思い知らされました。

兄弟平等のイメージ

愛情は平等に持っています。
でも明らかに手のかけ方に違いが生じる。
しかしながら同時に、この違いは避けることができないものでもあります。

上の子にしてみたって、
療育っ子と同じようにお世話をしてほしいと思っているわけではないと思います。

多分、自分も同じように愛されているという実感が必要なんだと思います。

そして時間とかチャンスは、
意図的に作らないと療育ライフの中で自然に生まれるものではないということ。

なので「きょうだい児」という言葉の存在を知ってから、
上の子と2人で出かける時間を作るように心がけてみました。

療育っ子のいない、上の子だけを見ている時間。
もちろんその間、療育っ子のことは夫にお願いしました。

休日であっても日中わたしと上の子だけが出かけることになると、
療育っ子が黙っていませんので、休日の早朝、2人でサイクリングに行くことに。

そしてサイクリングの目的は
カフェやファミレスのモーニング。

ゆっくりモーニングなんて、わたしも久しぶり♪
なんとも優雅で(2人ともジャージ姿ですが笑)、とても良い時間でした。

食べたら公園でバドミントンなどしてから、帰宅。

ほんの2時間程度ですが、貴重な2時間です。
今でも懐かしくてまた誘って行きたいところですが、
こちらも休日は昼まで寝るんだという中学生事情があったりします。
部活があったりしますしね。

今のところ、
コロナが落ち着いたら映画を見に行こう!
と約束していますが、今後の思春期具合ではフラれることも考えられます。

今後はもっと違う形で上の子に愛情を伝える工夫が必要になってくるかもしれませんが、工夫はし続けようと思います。

工夫していると言っても、
十分できているとは思えません。

ただ、療育っ子が特別支援学校に行っている今、
とにかく学校が楽しいという生活を送れている今、
今度は自分の意識を思春期の上の子に意識的に向ける番なんだと思います。

療育っ子のことは
学校と放課後等デイサービスに多くを任せられます。

思春期になるまで、
たくさんの我慢と寂しい思いをさせてきたことを、
なかったことにはできませんが、
自分の手が届くところに居てくれている間に、
少しでも、ほんの少しでも多くの愛情を伝える努力はしていきたいと思います。

この「きょうだい児」問題に危機感を持った背景には、
この言葉を知った講演会で聞いた内容が衝撃的だったこともあります。

それは、将来的に
例えば「きょうだい児」にあたる子どもが自分の進路を決める時や結婚を決めるようなとき、病気や障害をもつ兄弟の存在のために断念したり、またお相手のご両親に反対される理由になったりするという話でした。

まさに人生における大事なポイントで、
療育っ子のことが影響する可能性があるなんて・・・

その講演会では、
こういうとき、
「きょうだい児」が自分の本心を語れる場所があること、
自分も大事にされてきた実感が持てていること、
これが大事だと仰っていました。

自分の本心を語れる場所、人、というのは、
もしかしたら家族以外の方がいいのかもしれません。

家族だからこそ気遣って本心が言えないこともあります。

そうなるとわたしたち親にできることはあまりないかもしれませんが、親と「きょうだい児」の橋渡し的な存在を見つける努力をする、ということでしょうか?

そしてその次の
自分も大事にされているという実感をもてていること。

これはまさに、
親が意図的に愛情を伝え続けることでしか成し得ないことだと思いました。

年齢とともに伝える形を変えながら、
愛情を伝えられる工夫をしていきたいと思いました。

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